季節のはざま

長い冬が終わって雪解けのせせらぎに微笑んでいたら、優しい風が吹いて花咲く季節になり、いつの間にか生命の季節「新緑の日々」を迎えていました。

残雪の飯豊山がとても美しい会津喜多方です。
恋人坂の高みから盆地を見下ろすと、そこにはたくさんの水の鏡ができていました。
天を写す水の鏡、そうです今年もたくさんの稲田が植え付けの季節を迎えていました。
丁寧に土が起こされ、水を満たされた稲田が盆地の大半を水鏡に変えています。
ほとんどの水田には頭をちょっとだけ出した稲苗が不安そうに風に揺れていました。
遠く飯豊の山塊には残雪が輝いています。
水鏡の上をつばくろが高く、低く飛び交って、幾千年も繰り返されてきた風景に動きを与えています。
やわらかい風が頬をなぶっていきます。
私は恋人坂の高みに腰を下ろして、眼下の光景に見入っていました。


春から初夏へのはざまの中に、いったいいくつの美しい景色を見つけることができるのでしょうか?


  • 五月の貴公子

川の土手道を行くと、おりしも里桜の花の散り際でした。
はらはらと、はらはらとうす桃色の花びらがあとからあとから絶え間なく降ってきます。
土手の小径は薄いピンクに敷き詰められ、その上を歩く私はまるで王様のよう。
とても豪華な気分でした。
ふと、萩原朔太郎の詩が頭をよぎります。
「若草の上を歩いているとき、私は五月の貴公子である。」
若草の季節を愛した詩人ほどではないのですが、花びらを敷き詰めた小径を歩いていると、
私もおとぎの国の王様になったような、そんな気がして笑みがこぼれてしまいました。
頭上には桜の老木たちが差し出す若葉のトンネルがありました。
きらきらと木漏れ陽がきれいです。
私は生命の季節の中を歩いていきます。
顔を上げて緑の季節を歩いていきます。



  • 小さな庭にて

先日の日曜日、遅い朝に部屋の窓を開けると、とたんに甘い香りが押し寄せてきました。
藤の花です。
我が家の長老、白藤の花が満開の時を迎えていました。
80年以上もこの庭にいきており、
かつては藤棚もあって、小さい私は木登りの練習を重ねた藤の木でもありました。
あまりにも大きくなるので、父が小さくまとめ、格好よく駐車場の上に張り出してあります。
今年もきれいに咲いてくれたなあ・・・
白藤を見上げる父や祖母の姿を思い出します。
日ごろはあることすら忘れている樹木ですが、こうして一年に一度、思わぬ感慨を思い起こさせてくれる花です。
私はしばし、藤の香りにぼんやりとたたずんでいました。


休日の窓を開くれば白藤の 香り満ちたり亡父(ちち)のいた庭