温故知新  霊峰「飯豊山」

「あれっ、どうしてこんな県境なの?」私が飯豊山に興味を持ったきっかけは、一枚の地図からでした。福島県の地図や、東北地方の地図を開いてみてください。福島県の北西端、つまり飯豊山の一帯をご覧ください。山形県新潟県と境を接するこの一帯は、標高2000Mを超える山岳地帯ですが、飯豊の峰々の山頂や尾根道はすべて福島県に属し、ゆえに県境は細長く、まるで盲腸のようなさまを呈しています。日本中の県境を見ても、このような県境はありません。富士山は山梨県静岡県とで山頂を分け合っていますし、北アルプス穂高岳槍ヶ岳でも長野県の山であり、同時に岐阜県の山でもあるわけなんです。山頂や尾根を県境とすることが当然だったわけですね。では、なぜこんな県境ができたのか。それには、会津の風土が生んだ深い訳があったんです。肥沃な土地に恵まれた会津盆地は、古来より人口が集中し、気候風土
に育まれた独特の文化を産み出してきました。自然崇拝の代表としての山岳宗教も盛んであり、飯豊山のほかにも、磐梯山や飯森山などを対象とした信仰が盛んにおこなわれていたのです。現世を離れた魂は、子孫の住む場所が見える一番高い場所に集まって、子孫の行く末を見守るといわれていました。また、成人儀式としての登山の一面もあり、「お山はかけるな、お山をかけない者は一人前とはみなさない。」とした風習が存続していました。会津の男子は十代の中ごろの年齢になると、先達につれられて「お山がけ」をして、成人の仲間入りを果たしたのです。「お山がけ」にあたっては、銭やお米をまいて登るという奇異な風習もあり、現に登山道では、いまだに古銭が見つかることもあります。また、女人禁制の山でもあり、「三姥」の伝説など興味深い話もあります。地元の古老の話によりますと、女性は山麓にある飯豊山神社にお参りすれば、お山がけをしたことと一緒だと諭されていたとのこと。現在の山都町一の木にある飯豊山神社(いいとよさんじんじゃ)にお参りをしていたとのことでした。こうして、古くから会津の民衆による厚い信仰の対象であった飯豊山です。為政者も無視できる筈もなく、歴代の会津の支配者は、この信仰に手厚い保護を加えていました。なかでも会津松平氏の藩政時代には、御山役人を常駐させて、この飯豊山信仰を保護、管理しました。いわば官民一体となって飯豊山信仰を守ったわけです。そのゆるがぬ会津の人々の姿勢が、明治政府をして、全国でも稀有な県境を容認させたのだと思います。残念ながら今日の飯豊山は雲に隠れています。豊富な残雪もだいぶ細くなってきています。梅雨もあけ、この台風10号がいってしまえば、飯豊は可憐な高山植物でいっぱいの季節を謳歌します。かつての信仰の山も、現在ではスポーツ登山の聖地になりました。入下山に時間がかかり、安易な登山を拒んでいます。だからこその静かな山行を楽しめるのです。豊富な雪渓と高山植物を楽しめる飯豊の山々。会津の先人達を思いながら、おいでになってみませんか。飯豊の山々は、静かにあなたを待っています。