飯豊山初冬

tamon-wat2004-12-03

白冠を頂く飯豊山を朝な夕なに見上げる日々となりました。この巨大な山塊は会津盆地を優しく抱き、育み、見守る母なる山なのでありますが、こうして白きたおやかな峰々に姿を変えると、むしろ神々しくさえ思えてくる、そんな気品に満ちた名峰だと思っています。
いつものように恋人坂に立ちました。初雪の降った盆地を眺めたかったのです。うっすらと積もっていた雪の生命ははかないものだったようで、私は足元を気にしながら段々の田畑を横切っていきました。視線の先には採り忘れられた柿の木があったのです。柿の実の赤さが私を誘っています。広大な盆地を挟んで秋と冬とが向かい合っているかのようでした。柿の実の赤い色と、白きたおやかな飯豊の山塊と・・・。私の感動をどう表したらいいのでしょうか。小さなカメラには荷が重過ぎます。拙い文章にも期待はできないのです。願わくは行間に想いを汲み取っていただけたらと思うばかりなのです。
会津の人々のこころにある、白き飯豊山は本当に美しい風景なのです。


  • 蔵のことわざ

「下戸の建てたる蔵はなし」
いっときは市内に24軒もの造り酒屋があったこの地も、いまでは9軒の酒蔵になりました。それでも酒どころ喜多方にはこんなことわざが残っているのです。酒が飲めないようでは男として大成しない。付き合いを大切にし、斗酒なお辞さず、大きな気持ちの男でなくては蔵は建てられない。まさに男の甲斐性というものですね。
私がこのことわざを忘れられない理由。それは私が下戸だから。アルコールにてんで弱い私にはかなりグサリときたことわざでした。50歳を超えて、まだ蔵を建てられない私、当たっているだけにいまだ気になっていることわざなのです。


全国に有名になった喜多方ラーメンですが、そのおおもととなったお店を紹介しましょう。それは「源来軒」。昭和の初めから喜多方に根をはっていたお店です。主人の名は「藩 欽星」(ばんきんせい)。彼が喜多方ラーメンの産みの親といってもいいでしょう。麺を太い青竹にまたがって延ばし、太く、平たく、縮れた独特の麺をつくったのはこのご主人でした。彼は麺やスープの作り方を公開して多くの弟子たちを育てたそうです。その弟子や孫弟子たちが現在の喜多方ラーメンを支えているのです。彼は昭和61年に喜多方市の産業経済功労者として表彰されています。
昭和10年頃の喜多方中学校(現喜多方高校)の鉄拳制裁の罪状には
一、上級生に欠礼せし者
二、帽子をアミダにかぶる者
三、赤のれん、鳥万食堂、源来軒などにてラーメンに舌鼓を打ちたる者
とあったそうです。喜中生はマントで顔を隠してラーメンを食べていたそうなんです。喜多方ラーメンのルーツにふさわしいエピソードですね。
現在も喜多方駅から歩いて7〜8分のところに源来軒は営業中です。駐車場は店の裏手にあります。喜多方ラーメンのルーツを訪ねてはいかがでしょうか。
また、もう一つの流れも存在します。そうですね、もう一つのルーツはこの次にお話いたしましょう。