温故知新  蔵の街「喜多方」

人口37000人、世帯数9700戸、幹線をはずれた東北の小さな街ですが、市内にはおよそ3000棟もの「蔵」が存在しています。市役所の税務課が掌握している蔵、つまり固定資産台帳に載っている蔵だけでも2600棟もあるんですよ。4戸に1棟ということになりますが、すごい密度ですね。街の真ん中から、山ふところの部落にいたるまで、粗壁、白漆喰、黒漆喰、レンガ、様々な蔵があって、しかもそれぞれの用途が酒蔵、味噌蔵、米蔵、炭蔵、まゆ蔵、道具蔵、店蔵、座敷蔵、塀蔵、厠蔵
と多種に富んでいるんです。中には、お寺まで蔵造りとなっているところもあるんですよ。そして、これらの蔵はすべて生活密着型。装飾的な蔵とは違って、いたって素朴、厳しい風雪に耐えて時間を経てきた蔵がほとんどです。会津には「蔵を建てて、
一人前」という風潮があって、一家の主が蔵を持つこと、それが人生の目的の一つでもあったわけです。富の象徴、成功の証となったのですね。
会津には芦名氏をはじめ、幕末の会津松平氏まで六家の領主が交代しています。その中でも、大きな影響を与えたのが蒲生氏郷公でしょう。会津の都市計画の基本はこの蒲生時代に確立していますし、中通り三春城下にも蒲生時代の街割りをみることができるんですよ。蒲生氏は各種産業の育成にも尽力し、本貫地である近江日野から、木地師塗師などの職人を連れて会津に入部しました。会津漆器産業の礎となったわけです。喜多方地方も、この漆器業が定着し、新たな産業となって興隆しました。
また、良質な水、米、麦などに恵まれ、醸造業も盛んになり、これらの産業の基盤の上に蔵が造られていったわけです。明治13年、300棟を焼く大火にみまわれました。焼け跡には蔵だけが焼け残っていました。この焼け跡の風景が、喜多方人をして、「いつかは、蔵を・・」の精神を助長したのだと思います。事実、この大火をきっかけに耐火建築への関心が高まりました。また、明治30年には、岩越鉄道の工事が着工となり、喜多方ではレンガ工場が創業を開始しました。レンガ積みの技術が導入されたことも、蔵建設の背景にあったようです。