秋の彼岸

tamon-wat2005-09-24

敷布団を2枚にし、掛け布団にも厚手のものが必要になってきました。
もはや夏の後姿はどこにも見えず、秋の気配のみが周りに充満しています。
半袖シャツの快適さともしばしお別れ、長袖のシャツの暖かさにホッとする今日この頃です。


昨日は秋の彼岸の中日でした。
汗ばむほどの良い日和で、川の土手道をのんびりと歩いてお墓参りに向かったのです。
我が家のお墓は小高い丘の中腹にあります。
親族の墓地が仲良く並んでいて、四季折々の街並みを見下ろしています。
ちょっとした坂道を登るのですが、80歳の母にはだんだんときつくなってきたらしく、わずかな距離を幾度か立ち止まりながら、ゆっくりと登ってきました。
そういえば祖母も、この坂道を大儀がって晩年は墓参にくることなく、玄関の前でお寺の方角に向かって手を合わせていたこと、あの姿を思い出していました。
母の墓参がなるべく長く続いてほしいものだと見守っていたのです。


墓地は社交の場でもあります。
近所に住んではいても、格段顔をあわせないでしまう人がたくさんいます。
お墓参りという場所で「ああ、しばらくでした。元気でした?」なんて挨拶が飛び交って、
行きかう人とも「こんにちは!」。
お墓のご先祖様も、そんな子孫の姿をみて微笑んでいるのでしょうね。
昨日も旧交を温める人々があちこちに見られました。
過去から現在、そして未来へと、途切れのない時間が流れていることを実感する。
墓地とはそんな場所でもあるようです。


  • 誕生日

この一週間ほど月を見る機会がありました。
というより、夜空にきれいな月が上がっているために、否が応でも月が眼に入ったというのが本当でしょうか。


一週前の17日は私の53回目の誕生日でした。
この夜はFM喜多方のホールでとあるコンサートが開かれたのです。
友人の唐橋郁さんたちのグループ「C4」のコンサートでした。
唐橋さんは声楽家、迫力のソプラノです。ピアノは松本さん、小さい時からピアノが弾きたくてしようがなかったという物静かな好青年。そしてサックスの板橋さん。クラシックから始めた技量は抜群ですね。
この3人のトリオが「C4」なのです。
3人しかいないのに「C4]とはいかに?
ひょっとすると私もメンバーのひとりかも?なんて出番を待っていましたが、当然声は掛かりませんでした。う〜ん残念!
ともあれ、ソプラノとサックスって、どんな音楽になるのかな?と楽しみにしていたのですが、聴いてみてびっくり!
唐橋さんのソプラノと板橋さんのサックスが、まるでハモっているかのごとくホールを満たし、私たちを包み込んでいたのです。
陶酔のひとときでした。
音楽に包まれた誕生日とは、なんともぜいたくなものです。


スタジオを出ると、雄国の山の上に白々と月が輝いていました。
まさに玲瓏の月。
月明かりの中を、幸福感に満ちて歩いていきました。
私は立ち止まり、傍らのベンチに腰をおろして月を見上げます。
「天鏡」。月をこう呼びます。
天にある鏡は、私の姿や表情を写してはくれませんが、どうやら私のこころを写してくれるようです。
静かに月を眺めていると、来し方や過ぎていった日々が思い流れていきます。
息をし続けている楽しさとか、苦しさとか、寂しさとか・・・
「へっくっしょん!」
私はくしゃみをきっかけに涙目を拭いて立ち上がりました。
車のエンジンをかけると、つけておいたラジオが音をたてます。
民主党が・・・」
いちどきに現実の世界へ戻されてしまいました。


 「音楽の 余韻を照らす 小望月」

 「来し方を 思い眺むる 月見かな」


  • 写真はススキの花です。会津盆地ではコスモスとススキが満開。秋風に吹かれて優雅にたなびいています。風になびくその姿が印象的でしたので車を止めてパチリ。わざわざ刈り取ってお月見に備えなくても、野にあるものは野のままに眺めるのが一番ですね。

秋気到来

tamon-wat2005-09-16

朝、恋人坂からは盆地のあちこちに霧雨の柱が幾本か立っている珍しい光景が見えました。スタジオ入りする頃には頭上に移動してきたらしく、私の眼鏡越しの世界を静かに濡らしていました。
放送中も窓外は曇天のまま、しかし手元に送られてくる天気予報は午後からの快晴を予告していたのです。
午前の番組を終えて、昼食のため外に出てみると、なんと空の半分は青空に変わっていました。
なじみのラーメン店「さゆり食堂」から汗を拭き拭き出てくる頃には、もう空は隅々まで真っ青になっていたのです。
同時に、半袖シャツから出ている肘のあたりがスースーとするのを感じました。
陽光はまぶしく輝いているのに、大気は涼しいものになっていたのです。
車のエアコンを切って、窓を開放して走りました。
爽快です。
乾燥した涼しい風がほっぺたをなぜていきます。
「秋気到来」
そんな言葉を頭に浮かべながら、蔵に挟まれた路地を通り抜けました。
午後の収録を終えて、待ちかねたように恋人坂に上りました。
「あっ。」
黄金の海の向こうに、久しぶりの飯豊の山塊が姿を現していました。
青空にぽっかりと浮かんで、盆地を見守っています。
私は草に腰を下ろして、大好きな光景に見入っていました。
丘の上にはときおり風が吹いてきて黄金の稲穂に波をたてていました。
私の頬や二の腕もすっかり冷たくなってしまいました。
「くっしゅん!」
どうやら限界です。
夏の衣装ではこの風を受け止められません。
私はもう一度飯豊の山塊に眼をやって、秋気に満ちた光景を焼付けました。
雄国の山道を走っていると、口を開けた栗の実が落ちていました。
「栗ご飯が食べたいなあ・・・」
季節が眼に見える幸せとは実にありがたいものです。




  • 蔵の街「アートぶらり〜」

先日、楽篆工房の高橋政巳先生からご丁重なる案内状を頂戴いたしました。
作品展のお知らせでした。
(高橋先生は篆刻の大家なのですが、とても気さくな方で、いつも笑みを絶やさずどんなお客様にも懇切丁寧にお話をしてくれる得がたい方なのです。
喜多方へお出でになったら、「楽篆工房」は見逃せないギャラリーですので皆さんの記憶にしっかりと入れておいてください。)

今年も「アートぶらり〜」の季節がやってきました。
この催しは市内20箇所にある美術館やギャラリー、ホールにて時を同じくしていっせいに
開かれる展覧会のことなのです。
東北の片田舎でしかないこの喜多方でこんな方式の展覧会がおこなわれるなんて、私は声を大にして叫びたいと思います。
こんな試みをずっと続けている喜多方の街を誇りに思っているのです。
この秋、喜多方にお出での方はお忘れなく美術めぐりをなさっていただきたいものです。

蔵の街「アートぶらり〜」
  期間 : 9〜10月
  場所 : 市内20箇所の美術館、ギャラリー、ホールなど。
       (FM喜多方でも物江章写真展「飯豊連峰花紀行」が開催されます。)
  主催 : 「蔵のまちアートぶらり〜」実行委員会 0241-23-0404


  • 名月

暗くなるまで書き物をしていました。
夕食を知らせる声に顔を上げると、窓越しに月が煌々と光っていました。
まさに「玲瓏の月」という表現が適した美しい月で、私は階下の呼ぶ声も忘れて、しばし月に見入っていました。
「初月」
中秋の名月までに段々と大きくなっていくこの日々の月を言います。
正しくは旧暦6日くらいまでの月をこう呼ぶそうですが、先人の豊かなる感性に感心をしながら、美しい月に見入っていました。
そういえば高校生の頃、古文の授業で「月影」の意味をどうしても理解できずに、不満げに先生の顔を見つめていたことを思い出していました。
既に鬼籍に入られたその先生ですが、理解できない不精進な教え子をどうやらもてあましていたのかなと、ただただ苦笑い。
今、「月影」の意味をあらためて教えんとばかりに満月手前の美しい月は輝いていました。
ふと、
「おほてらのまろきはしらのつきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」
会津八一のうたを思い出しました。
いつかはこんな素晴らしいうたを詠んでみたいと夢見ています。
中秋の名月は18日。
どんなうたを詠むことができるのでしょうか。

秋祭り考

tamon-wat2005-09-09


今日は9月9日。
秋の気配がそこかしこに感じられる日々となりました。
喜多方の近郊では幾つかの神社の門前に秋の例大祭を告げる旗が立ち、集落の方々が忙しそうに振舞っています。
私の住む小さな町でも、今月17,18日が町をあげての例大祭になっていて、秋祭りといえば9月の行事であるかのようになっています。


しかし、毎年この頃の秋祭りを見ていると、いつも疑問に感じてしまうのです。
この時期に例大祭という根拠の希薄さに疑問を感じてしまうわけなのです。


多分、この時期の例大祭は、今日が「重陽節句」であることと無関係ではないと思うのですが、「重陽節句」は別名を「菊の節句」ともいって晩秋の行事であり、旧暦で行うのこそしっくりとくる行事であると思っています。
集落の神を祭る大祭は「収穫の祝い」、収穫祭であって、それが「重陽節句」と渾然一体となったのが秋の大祭だと思っています。

それが、まだ夏の残滓を引きずっているような9月の初旬に行われてしまうのは、なんだか形だけが重視されてしまっていて、本質を忘れられているように感じてしまうのです。

もちろん、米本位主義の時代ではありませんし、私たちの生活の中でお米の占める位置もずっと低いものにはなっています。
しかし、2000年の伝統が季節感のずれたままに行われてしまうことが釈然としないのです。


かんがみれば、旧暦のままに残っているのは「お盆」くらいになってしまいました。
見事と言っていいほどの新暦交代です。
そんな時代に馬鹿なことを言っているようですが、神社の参道に翻っている旗を見上げながら、稲作農耕民族の歴史と伝統を忘れないようにしたいとひとり思っている私なのです。



  • 野分去りて

九州をはじめ、全国に多大な被害をもたらして台風14号は遠くオホーツクの海に消えていきました。
今年は台風が少ないなあなんてのんびり構えていましたらこの始末。自然を相手に油断とか慣れとかは通用しないこと、あらためて思い知らされました。
喜多方に限れば、幸いにも大きな被害は受けませんでしたが、全国のニュースを見るたびに
とてつもなく降る雨に恐ろしさを感じた次第です。
名古屋や四日市に住んでいた頃、台風がくると浸水被害があちこちでありました。
「いやあ、家は床下で済んだから良かった・・・」なんて言っているのを聞いてビックリしたことを覚えています。
台風被害とは縁が遠い東北生まれの私にはとんでもない会話に思えたのです。
海岸沿いには大小の観音様があちこちに立っていました。伊勢湾台風の供養でした。
造船所の隣にあった事務所への通勤路、観音様に会釈をして通ったものです。
最近の台風雨は地球温暖化の影響で雨量がとんでもない量になると聞きました。
なるほどニュースでも1300ミリなどと信じられぬ雨量を伝えています。
「おごる平家」ではないのですが、今私たちができることは何なのか、小さな生活を見直すことも大事なことですね。クールビズ、いいじゃないですか。我が家のエアコンも一年でせいぜい2〜3日しか活躍しません。暑ければ薄着で汗をながし、寒ければ厚着して寒をやりすごす。都会では無理なことでも、喜多方では可能です。
また高くなったガソリンや灯油を横目に、この冬も小さな工夫を重ねてみようと思っています。


  • 九月の声を聞いた途端、田んぼの上を舞っていたつばくろ達の姿が見えなくなってしまいました。

色づき始めた田んぼの上を高く、低く飛ぶ彼らの姿はいつもの風景になっていたのですがいつの間にかすっかりと姿を消してしまいました。
「じゃあ行くよ」とか「またね」とか、なんらかの合図でもして姿を消してくれるのならまだしも、気がつけばいないというのはどこか寂しくなってしまいます。
まして我が家の軒先で生まれたつばくろ達ですから、せめて一方的にでも別れの挨拶などかけてやりたかったなあと、高い空を見上げている私がいます。
またひとつ季節が去った・・・。
黄色みを増していく田んぼの上にはたくさんの赤とんぼが飛び交っていました。
台風一過の高い青空の下、どうやら豊穣の季節の足音が聴こえてきたようです。
(写真は恋人坂からの喜多方です。青空の下、黄金の海になりつつあります。)

二百十日

tamon-wat2005-09-01

今日9月1日は二百十日防災の日でした。
昨年とはうってかわって台風の少ない年になっていますが、これからも少ないとは断言できないのがお天気です。アメリカでのハリケーンカトリーナ」の惨状も生々しく伝わり、自然災害へのこころづもりをあらためて思う日となりました。
自然に逆らうことなく、自然と調和して生きるのが私たちの伝統でした。生産性とか利便性とかに捕らわれるあまり、大事なことを忘れないようにしたいものです。


  • ゲーテの詩朗読コンテスト」に出場して

先日の8月27日(土)、東京千駄ヶ谷の津田ホールにて開催された「第24回ゲーテの詩朗読コンテスト」に出場して参りました。
全国で400人近くの応募者があり、二回の録音選考の結果25人が選ばれ、上記のとおり本戦が開催されたわけです。
幸運にも私もその中の一人として選ばれ、本戦出場の栄に浴したわけですが、本当に嬉しい出来事でありました。


出場者は15歳の少女から77歳のおばあさんまで、大変な競争を経て選ばれただけに素晴らしい朗読をする方ばかりでした。
特に今年はドイツ年とのことで、ドイツ語原語で朗読をする方が半分以上いらっしゃって、朗読のレベルは特に高いコンテストになったようです。


優勝者は私の直前に朗読をなさった大学院生。
原語で朗読をなさった素敵な女性でした。
出場順が隣ということもあって、控え室で親しく話しをしていた彼女が優勝者として名を呼ばれたとき、私はこころから拍手ができたのです。
つまり、リハーサルの段階から出場者のレベルの高さがわかり、私など優劣を争う段階ではないということ、わかっていたからなのです。


そのとき私が考えていたことは、朗読の技術では既に太刀打ちはできないのは明白、だったらこのコンテストを精一杯楽しもう。
つまりは自分らしい朗読を貫徹しようということでした。


選んだ詩は朗読にして1分足らずの短い詩「夜に思う」でした。
晩年のゲーテが夜空を仰いで、過ぎし日の少年の日々や初恋の彼女の思い出、そして老境に入りつつあるこころの様をうたった詩なのです。
200年前のゲーテの心境を十分に理解できたとは思いませんが、私も50歳を過ぎてゲーテの心境の足元くらいは見えるようになったのかなと思えるふしもありました。
自分らしくということは、いわばゲーテの詩を借りて自分の思いを表現してみようと、そんな朗読ができたらいいなと、そう思っていたわけなのです。


でも500人の人を前に、そんな朗読が果たしてできるのだろうか。
厚顔無恥な私にもかかわらず、心臓が早鐘を打ち続けていました。


「13番 渡邉・・・」と呼ばれました。
ちゃんと歩いています。紹介の言葉も耳に入っています。
観客席の顔も良く見えています。
「これなら大丈夫かな?」
朗読を始めた瞬間に頭のなかが本当にまっしろになりました。
口だけがかってに動いています。
「あれっ、あれっ」と驚いている私がいます。
最初の一節を正しく話せたのかわかりません。
二節目になって、ようやく頭の中の詩の文言を追うことができました。
三節目、思ったような間で離せました。


「あっ、終わった・・・」
静かな安堵感が押し寄せてきます。
直後のインタビューにもてきぱきと答えることができました。
楽屋裏へ戻って椅子に腰をおろすと、どっと安心の汗が出てきました。
もはや勝敗や受賞ということは眼中にありませんでした。
ただただ自分の目指した朗読ができたことに満足をしていたのです。
うまいとか下手だとかを超越して、自分らしく朗読ができた満足なのです。


表彰式、記念撮影と一連の儀式をこころから楽しんでいました。
そして、出場者同士、「ごきげんよう」とか「お元気で・・・」とか声を掛け合って分かれたのです。
恐らくはもう二度と会うことのない人たちです。
かけがえのない一日を、このコンテストでご一緒できたことに感謝しました。


帰りの新幹線のなかで、私はつくづくわが身の幸せを思いました。
50歳を過ぎて、こんな新鮮な緊張感に包まれて、立派なホールの舞台に立ち、私の思いをたくさんの人に聞いていただけた。
まさに、私のこころのアルバムに大事な一ページが加わったのでした。
非日常の興奮を引きずりながら私は何度も満足のため息をついて、車窓に写った私の顔と喜びを分かち合っていました。
そして、
車窓の向こうに広がる暗闇にむかって、私の夏は終わったんだなあと小さくつぶやいていたのです。




  • 写真は今日の恋人坂から見た会津盆地です。

いくぶんか黄色味が濃くなってきました。
蕎麦の花が満開になっていて黄色のたんぼと白い蕎麦のはなと、いいコントラストを描いていました。
久しぶりに飯豊の山塊がうっすらと姿を見せてくれました。残雪の白さも見えました。
もう少しすれば、もっとはっきりとした飯豊山が見えると思います。

友あり、遠方より来る

tamon-wat2005-08-28


幾度かの大雨と、東の海上を駆け抜けていった台風とが、会津盆地の夏をすっかりと洗い流してしまったようです。
雨の後に残った夏のかけらは、いくばくかの残暑と遅咲きの朝顔たち。
夕闇が迫れば、虫の音ばかりが聴こえてきます。
駆け足で去っていく夏の後姿に、少しく寂寥感を感じてしまいます。
この季節の言葉を探せば「新涼」という言葉でしょうか。
秋という新しい季節の気配を指して、生活の中で少しずつ訪れる小さな秋を感じるといった初秋の言葉になろうかと思います。
季節と季節のはざまで、あなたはいったいどんな秋を感じていらっしゃるのでしょうか?



一昨日、久方振りに懐かしい顔に逢うことができました。
信州松本の松下茂夫さん。私は「しげちゃん」と呼んでますが、彼が喜多方に来てくれたのです。
昭和46年に大学の同級生として知り合い、以来36年の長きにわたって私が必要とし続けている友人です。
若かりし日々、私はいつもしげちゃんと一緒にいました。
ちょっとした時間ができると、松本の彼の家に入り浸り、ご両親様にはひとかたならぬお世話を頂き、甘えさせていただいたのです。
そして、彼を通じてたくさんの松本の友人に出会えました。
松本という土地をもちろん好きなのですが、大事な人がいるからこそ、もっとその土地「松本」が好きになったというのが事実に近いでしょうね。
人がいるからその土地が好きになるのです。
そんな場所「松本」を持てたこと、幸せに思っています。


しげちゃんと喜多方の街をベロタクシーで歩いてみました。
ドライバーはあのブライアン君です。
以前、ベロタクシーは喜多方にそぐわないと主張していました。
いまでもその考えは変わらないのですが、なにしろ知り合いの皆さんが一生懸命に努力を続けています。
歩く早さの街がどう写るのか興味もありましたので、いい機会とばかりに乗ってみたのです。
なかなかいいものでした。
ブライアン君のガイドもなかなか堂に入っていて十分に聴けました。
ベロ関係者のご努力に敬意を表します。
しかし、そぐわない感じはまだ否めません。
形と色の問題だと思いました。
形は変えられないと思いますので、せめて色をレトロ調、たとえば臙脂色のようにしただけで印象がガラリと変わると思いますので、ぜひご検討を願いたいですね。


おっと、脱線です。
しげちゃんと昔のように肩を並べて歩いていると、時空を超えてしまいます。
久しぶりであることなど忘れてしまいます。
互いに歳はとりましたが、一緒にいるとあの日とまったく同じ近さにいます。
あらためて、こんな素晴らしい友人を持てたこと嬉しく思っていました。
同時に、しげちゃんの表情やしぐさに、今は亡きしげちゃんの父上を思い出していました。
英男さん。
大変なお世話になったのに、何の御礼もできずに終わってしまいました。
いや、生きている母上にだって何もすることができずにいます。
そんな後悔もあるのですが、現実には何もできません。
目上の人から受けた恩義というものは、なかなか返せるものではありませんね。
だからこそ、今度は自分より目下の人に対して世話をしていかねばならないのだとも思っています。
「娑婆は追いがけ」という言葉には、そんな意味もあるのかなあとボンヤリ考えていました。


しげちゃんが気に入ったのは「楽篆工房」。
高橋政巳先生に紹介しました。
しげちゃんは先生のお話に感心することしきり。
「喜多方には凄い人がいるなあ。」としげちゃん。
「だろ!喜多方って変な街だよな。」と私。
喜多方の文化度の高さを感じ取ってくれたようです。
文化都市「松本」に住むしげちゃんですからね。
私も一番知ってもらいたい喜多方の魅力を感じてもらえて、とても嬉しかったのです。



しげちゃんととった夕食は喜多方ラーメン
ラーメンでいいのかよ?といっても「ラーメンが食べたい。」とのこと。
二人で向かい合って食べたラーメンは格別の味がしました。



短い滞在でしげちゃんが何を感じてくれたのかはわかりません。
しかし、「来て良かったよ。」と言ってくれたしげちゃんは、きっと私の期待以上の感触を持ってくれたのだと思ってます。
FM喜多方の玄関前で撮った久しぶりのツーショット。
しわや白髪が増えてはいても、ちっとも変わらぬ二人が写っています。
時間も距離も超えてしまうしげちゃんと私が写っています。

夏の終わり

tamon-wat2005-08-19

7月の後半から、特に8月の当初から喜多方はたくさんの行事が目白押しでした。
諏訪神社と出雲神社、二つの例大祭や喜多方発21世紀シアター、庄助踊りや太鼓の競演、
そしてお盆。16日夕の盛大な花火が、文字通りお盆と人々の興奮とを見送る「送り火」となって、喜多方の短い夏は終わりを告げたようです。
今年も短い期間にたくさんの出来事があり、たくさんの笑顔に会うことができました。
その笑顔のなかで印象的だったのはやはり子供たちの笑顔でした。
喜多方発21世紀シアターという素晴らしいイベントは、喜多方の子供たちを確実に育て上げています。
観客になっても、裏方としてイベントを支えても、どちらも子供たちにとっては素晴らしい経験です。彼らの眼は本当に輝いていました。
故郷意識をこんな風に醸成していくこと、無理もなく感心することしきり。
きっと他の自治体にとっても大変参考になるイベントだと思っています。
こんな素晴らしいイベントを続けている喜多方の街、そして市民の皆さんに心から敬意を表します。
さて、
お盆も過ぎて、日中の日差しはいまだ強烈ですが、陽が陰ると途端に様相は一変して、あれほどの大合唱だったヒグラシの声もなくただ虫の音だけが静かに聴こえてくるようになりました。
もはや夏布団の薄さは頼りなく、毛布を追加しての就寝となります。
窓の下では「スイッチョ、スイッチョ」と一年ぶりの声。
電気を消した闇のなかで、忍び寄ってくる感慨に寝返りをひとつ、ふたつ。
盛んなるもの、勢いのあるものが少しずつ衰えていく様には一抹の寂しさを感じてしまいます。
東北の短い夏が終わるこの頃になると、毎年のことながらまわりの風景が白茶けて見えるような、気がつけば遠くを見ているような、張り詰めていた何かを失ったような、そんな感慨にとらわれてしまうのです。
何十年も暮らしてきても、決して慣れるということはなく、むしろ年々その深みが増していくような、そんな気さえもしています。
「祭りのあとの寂しさ」なんでしょうね。
とにかくも、
短い夏は終わりました。



16日の夕刻、母と並んで送り火を焚きました。
さらなる一年にご加護いただきたいと祈りながら父と祖父母たちを送りました。
小さくなっていく火を見つめていますと、かつて父と一緒にいった京都の夏、大文字焼きを思い出していました。
その日はあいにくの雨。
豪雨のような夕立に襲われて傘などまるで役にたちませんでした。
私たちは雨を避けて叡山電鉄出町柳駅に逃げ込んだのですが、そこにも沢山の人が避難していて大混雑。
父と顔を見合わせて苦笑いをしたこと、覚えています。
小降りになった様子で、銀閣近くまで移動していくと、まさしく大文字は点火されていました。
雨をついて決行されたようですが、良く見るとどこか頼りなげな大の字です。
この強い雨で思うように燃え上がらず、細身の大文字になってしまったようなのです。
「うん、こんな珍しい大文字を見れたから良かったなあ。」
父はこんな風に負け惜しみをひとつ。
顔を見合わせて、こんどは呵呵大笑でした。
我が家のお盆を放り投げて、たった一度だけ行った京都のお盆。
細文字の大文字と父の笑顔とは、いまでも瞼に焼き付いています。
玄関先で消えようとしている小さな送り火は、あの京都大文字と父の笑顔とを鮮明に思い出させてくれる、存外大きな炎なのかもしれません。





写真は恋人坂からのお盆過ぎの盆地です。朝曇りの盆地は夏の行事続きでちょっと疲れているようでした。このところ飯豊の山塊が姿を現してはくれません。残雪の残る雄大な飯豊をいつも見たいと思ってはいるのですが・・・。私の片思いは当分続くようですね。

朝曇り

tamon-wat2005-08-05

ヒグラシの合唱に起こされて窓外を眺めますと、空はうすぼんやりと曇っている様子。
「おっ、今日はあまり暑くならないかな?」
ところが仕事先に着く頃には、空はもうすっかりと青い空になっていて、しっかりとした暑さが私を焼き上げようとしているかのよう。
こんな夏の朝のお天気を「朝曇り」というそうですね。
前日の強い熱射で空に昇っていた水蒸気が、夜気に冷やされて、早朝には雲がかかったようになっている。
日中の気温がどんどんと上がってくるとすぐ消える運命にあって、これは夏の朝特有のお天気なのだそうです。
まだ盛夏は始まったばかりなので、この朝曇りにも見事にだまされてしまいました。
恋人坂からの朝曇りの散居風景はなかなか好い景色で、会津の魅力のひとつだなあといつも見入ってしまうのです。


喜多方の街中は東北に似合わず暑いのです。
34度なんて信じられない温度にまで上昇しました。
そんな暑さのなかでも、市内では連日の夏祭りの準備や、後片付けに大勢の人が汗を流していました。
2,3日とお諏訪様の夏祭りがあってだいぶ賑わいました。
4日の午前中は前夜の後遺症で気分の悪そうな、青い顔をしてスタジオ入りしてくるスタッフもチラホラ。
おいおい、喜多方の夏はまだ始まったばかりだよ。とこころの中で忠告をしておきましたが、はてさて届いたかどうか・・・


暑い暑いと言って過ごすのもあと二週間ですね。
お盆が過ぎてしまえば、いつものようにすずよかな夜が待っています。
しばし亜熱帯と化した会津の夏本番を楽しむことといたしましょう。
夏にしか味わえない会津の魅力を、あなたはどこに発見するのでしょうか?


写真は「朝曇り」の下で撮った稲穂です。もう70〜80CMに伸びた稲穂がまっすぐに空を目指していました。この暑さを十分に吸収しておいしいお米になってもらいたいですね。



私の好きな恋人坂から雄国山をさらに上っていくと会津喜多方雄国農園があります。
この農園はいわゆる「○○特区」の賜物であり、喜多方が申請、許可された「アグリ特区」事業のひとつとなっています。
雄国の雄大な自然を活かし、多くの人に農業を楽しんでいただきたいとの趣旨でオープンしました。
無農薬の安心野菜をつくりたい、昔の味のトマトが欲しい、休日には土いじりがしたい、動物と触れ合いたい、蕎麦を打ってみたい、そんなさまざまな希望をかなえるべく雄国の中腹にこの農園はあります。
先日、行ってみたところ、恋人坂とはまるで違った大迫力の風景と、お蕎麦のうまさにおどろいてしまいました。
私は蕎麦を二枚も食べてしまったのです。
何?たった二枚か?と怪訝に思わないでください。都会の基準と喜多方の基準とでは雲泥の差があります。
雄国の高みから見る雄大会津の景色を、どうしたらみなさんに伝えることができるでしょうか。
雲がはれて、盆地の向こうに姿を現すであろう飯豊の山塊を想像しながら、再訪を決心していました。
喜多方の魅力をまたひとつ発見しました。


  会津喜多方雄国農園
    喜多方市熊倉雄国字獅子沢577
    0241−24−3101
        営業時間  11:00〜20:00




  • 喫茶閑話

講談社週刊現代がエッセイを募集していた「京都・奈良、私の散歩道」に入賞しました。
この春4月、友人から「おい、お前向きのエッセイ募集があるぞ」と教えられ、一晩で書き上げたエッセイが思わぬ賞をいただきました。
ご褒美は京都・奈良への旅行です。
暑さが一段落したら、またあの路地に立ってみたいと思っています。



斑鳩の路地」


喧騒の中、あしばやに法隆寺の参拝を済ませると私の足は西里の集落へ向かった。
上々の天気である。
もうすぐ立夏
頭上にはもう初夏の青空が広がっている。
わずかな距離を歩いただけで静寂が支配する。
私は土塀の路地を記憶をたどりながら歩いていく。
西里。
この斑鳩の塊村は、もともとは法隆寺の修繕・維持管理に従事した人々が住んだという。
平安の遷都と共に大半の人は京に移り、千年の時間が集落の印象を平らかなものに風化させていく。
迷路のように細く縫った路地が続いている。
土塀と漆喰の剥げ落ちた民家の壁にはさまれて、曲がりくねった路地が続いている。
掘割の水がやわらかい音をたてている。土塀越に柿の新芽が萌えている。
角を曲がると見覚えのある場所。
いくぶんか広がりのあるこの径は、あの日、花柄のワンピースの君と手をつないで歩いた径。
将来に何の不安も持たなかった私たちの歩いた径。
私はさらに歩みを緩め、時を越えようとしていた。
君の姿を追い求めていた。
あの声を探そうとしていた。
違った人生に想いをめぐらしていたのだ。
ふと、
顔を上げると、君がいた。
花柄のワンピース姿の君がいた。変わらぬ笑顔の君がいた。
私と、私の中の君と歩く土塀の路地。
しばしの時間旅行。
生き様を確かめる径。
やがて、
思索の路地を抜けると私は大きくため息をついた。
そして、
再び顔を上げると、大和屋根の向こうに見える五重塔をめざして、ちからを込めて歩きだした。